回想1 旅の途中

 

 

 

気がついたら随分遠くへ来てしまったみたいだ。困ったことに新居の蛇口が壊れており洗濯機が使えない。そのため、洗濯物は溜まる一方だ。そんな問題を解決すべく近所のコインランドリーへと向かった。そこは徒歩1分位の近場にあり、田舎には不釣り合いな24時間営業をしている。その時は19時であったが周囲は山間で暗く、コインランドリーだけが道路沿いで煌々としていた。中に入ると人は誰も居なかったが機械の熱気で生暖かった。早速、洗濯物を入れ、待ち時間が30分あるらしいのでパイプ椅子に座り持参した小説を読むことにした。夜のコインランドリーの静けさ、洗剤の香り、生暖かさは、見知らぬ土地に来た自分にとって何故か心地よかった。小説を読み進めると「人はみな旅をしている途中なのかもしれない」という一文が目に止まった。多分、今の自分の境遇にぴったりくる言葉だったのだろう。故郷を離れ新たな場所に居る自分はまさしく旅の途中だ。

7/4

AM8:00

土曜日の朝程希望に満ち溢れた朝が有るだろうか。起きがけに一杯のアイスコーヒーを飲んだ。このコーヒーは森の天然水とインスタントの粉末で構成されている。まるで大雨が降ったあとの水溜りみたいな外見である。

 

金曜日の夜か土曜日の朝に一週間分の食料を買い出しに行く習慣がある。本当は昨日の夜に買い出しに行く予定であったが、警報レベルの大雨が降ったので断念したのだった。

 

AM9:10

スーパーへ向かう。

朝食用の食材を買う。

自分の平日の朝食は決まって同じ物を食べる。トースト一枚、目玉焼き一つ(調子の良いときは二つ)、ソーセージ、アイスコーヒーだ。パンと卵に関しては毎回同じメーカー、産地の物を買う。だが、ソーセージはこれと言って決まっておらず毎回どれを選ぶか悩む。今日も例外ではなく、加工肉売り場に立ち尽くすこと数分…

海外の太いソーセージを選んだ。

ホットドッグにするのも有りかも知れない。

 

 

村上春樹の「羊をめぐる冒険(上)」を読んでいるともう夕方、晩御飯はどうしようか。

 

 

 

 

 

 

 

 

ソーセージ
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深夜ラジオが好きだ。

飽き性な自分が一番継続している趣味は深夜ラジオを聞くことだろう。

 

深夜ラジオを聞き始めたのは確か高校一年生の頃であった。高校生と言えば世間一般的に、部活に遊びにまたは恋愛等の青春を謳歌する綺羅びやかな時期である。

しかし、高校卒業直前くらいまで、スマホすら持ち合わせていなかった自分にはその様な青春は空想の産物であった。

率直に言えば自分は「青春」が羨ましかった。そして自分には無関係なものだと感じていた。

 

あの頃はよく学習していた、そして夜に周波数を合わせた。今では考えられない程睡眠時間を削ったものだ、多分それだけ熱中していた。

 

学習の息抜きにベットに横たわりラジオを聞きながら夜空を眺めたり、遠くの建物の灯を見つめていた。夜明け前のひんやりとした空気も、朝焼けた空も好きだった。

 

 

先日実家に帰ると閑散とした部屋にはまだあのラジオがあった。だが、近所に新築が建って昔の様に窓から遠くの景色を見る事が出来なくなっていた。地元の街並みも所々変わっていた。いつか全く知らない街になってしまうのか。あれだけ見慣れた両親も少し老いた様に見えた。

 

 

 

 

 

今思い返せば、あの頃は紛れも無く「青春」だった。

 

 

 

 

小さな月を見た


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夕方に見た小さな月。 

 

何だか途方も無く遠くへ行きたくなる、思いを馳せてしまう。自分の目の前の暮らしや、自分自身の器である肉体と乖離する想像をした。多分それは日常が退屈で現実が受け入れ難いからだと思う。

 

 

 

毎日

毎日殺風景なデスクに向かう。昼休憩には味気ない栄養補給をしてスマホを弄る。正確さを問われる業務、失敗を批判されることの恐怖で嫌な汗をかく。
雇用があり飢えることなく、寝床のある暮らしは決して当然だとは思わないけれど、その対価として毎日捨てている物事の多さもまた、当然だとは思わない。そんな現実を誤魔化すために、肌触りの良い真っ白なシーツを新調したり、野菜たっぷりのパスタソースを作ってみたりするけれどなんだか空虚だ。

週末は救済じゃない

 週末が来ると必ず、この退屈で苦悩ばかりの平日から抜け出せるのだと錯覚する。まるでゴールがきたみたく。
僕らの世代の労働のゴールなんて何十年後になるかも分からないと言うのにね。

この周期を後何回、何百回繰り返すのか、考えると途方も無い。