ひと夏の終わり

最近はただ、延命治療でもしているかの様な日々である。緩やかに淡々と過ぎていく。疲れからか、食べたい物が1つも頭に浮かばない。これは多分生物が健康な状態ではないと言う証明になるだろう。

仕事が終わり、人も大して乗らない廃れた路線のバスに乗る。年季の入ったシート、薄暗い車内に光るピンクの蛍光色の停車ボタン。

シートにもたれて窓の外をぼうっと眺める。

窓ガラスの表面を水滴が滑る。水滴は代わり映えなく点から線になり流れる過程を繰り返していた。そんな過程を無心で眺め「何が楽しくて生きてるんだっけ」とか「自分はこのままで良いんだろうか」とか漠然と考える。大人と呼ばれるようになってからの方が突然泣きたくなる回数が増えた。劇的な原因が涙を誘うというよりかは、その原因は複合的かつ蓄積していたものだった。張り詰めた心が裂けてゆっくり視界が滲む。

 

最近は写真を撮る気力が無い。平日は勿論週末は部屋で過ごす事が多い。自分にとってカメラは楽しい時間の象徴だ。楽しい時間が流れる時には常にカメラがあった。それはその瞬間を思い出に残す為だろう。今は埃がうっすら被り置物と化している。

 

 

 

 

この間の旅行のフィルムは未露出で写っていなかった。フィルムを無駄にしたのはカメラを趣味として以来初めての事だった。

シャッターが虚しく空を切ってフィルムがから回る。あの日の記憶が感光していく。